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喪失

月曜日、親知らずを抜いた。

親知らずを抜くのは二度目だった。四年前に一度、左下の親知らずを抜いたことがあるのだけど、そのときは傷口を縫ったからか、血がなかなか止まらず麻酔が切れたあとは苦しい時間が続いた。頬も盛大に腫れ、外に出るのが億劫になるほどだった。

今回抜くことになった右下の親知らずはその頃にはもう頭をもたげていて、歯医者さんにも「抜いた方がいいよ」と言われていた。しかし緊急性がなかったので放っておいた。それで気づいたら四年。友人と会って食事をしていたら「こないだ行った歯医者がね!全然痛くなかったんだよ!絶対行った方がいいよ!」とまるでお気に入りのカフェを勧めてくるような口調でごり押しして来たので、これはいいタイミングだ、と意を決し、予約に踏み切った。

ただ心配だったのは、彼が抜いたのは上の親知らず一本。僕のは下の歯だ。「下の歯の方が神経に近いからダメージが大きい」という通説を鵜呑みにしていた僕は、それがやっぱり気がかりだった。四年前の悪夢がよみがえる。

先週、手術前に状態を確かめるのと歯の洗浄のため一度、初診に赴いた。わざわざ歯医者へ行くために中央線に乗って都心部へ。すいぶん遠くへ来たもんだ。かねがね聞いていたドクターは朗らかな雰囲気で、いかにも腕のよさそうな印象だった。いや、前もって「いい先生」と聞いていたことによる先入観や、是が非でも「いい先生だ」と思いたいという不安がそう見せていたのかもしれない。

すると一言。

「あ~~。たしかに右下は抜く必要がありますが、これは左上も虫歯ですね、抜かなきゃなりません。右上のはどうします?一緒に抜いちゃいます?」

と、こちらの思考スピードもお構いなしにどんどん話を進め、スタバの店員があれもこれもとトッピングを勧めるかのごとく抜歯をそそのかしてくる。

かくして、結局残りの親知らずを一つ残さず抜くことになったのであった。

それを紹介してくれた友人に報告すると、 「いいかい少年よ、よく聞きなさい。歯医者は少しでもたくさん歯を抜きたがるものなのだ。考えてもごらん、君は髪を切りすぎない美容師に会ったことがあるかね?」 (原文そのまま。なお句読点は可読性を重視し補っています) と言われた。

なんだなんだ?これはもしや先生と徒党を組んで僕を陥れようとしているのではあるまいか…?

そうして訪れた月曜日。もういっそ早く終わってくれ、僕の胸中はその一心だった。

すると、本当に、一瞬で終わった。麻酔に十分時間をかけ、十分効いてきたタイミングで一気に抜歯。その手際のよさはそう…一流の料理人のそれ。プロはすごい。

この日は右上と右下の計二本を抜いた。左右同時に抜くと食べるときに困るので、残る左上はまた今度。でもこんなにあっさり終わるのなら、最後の一本を抜くのが楽しみなくらいだ。

いや…、まさか忘れたわけではあるまい。辛いのは手術そのものじゃない、“術後” だ。麻酔が切れたあと、傷口がどれだけ痛むか。四年前を思い出すんだ。 僕は処方箋に従って、抗生剤と痛み止めを早めに飲んだ。でも知ってる。痛み止めなんて所詮気休めであることを。ロキソニンを飲むだけで痛みがなくなるなら医者はいらない。

と思ったら…あれ?夜になっても痛くない。念のため、痛み止めを追加で飲む。寝れない夜を想像していたけれど、普通に眠れてしまった。そして翌朝、起床。寝ている間に痛み止めの効力は切れていたはずだ。なのに痛くない。ん?なにかがおかしい…こんなんでよかったっけ…

この疑心暗鬼な状態が三日ほど続いた。そしてついに、本格的な痛みは訪れなかった。これはもう、教えてくれた友人と先生に感謝するしかないではないか、、、

ただ、痛みはないとはいえ違和感はもちろんのことあった。

それはそう、何年も前からずっとそこに、当たり前のようにあったものが、ないのだ。歯茎には文字通りぽっかり穴が空いている。髪だって爪だって生え変わる。でも歯はそうじゃない。永久歯になったあとは、その名の通り永久に、朽ちるまではそこにある。それをわざわざ抜くのだ。親知らずは、永久歯の面をして最後にはいなくなる。どうせ殺されるなら生まれてこなければいいのにと、歯のことなど何も知らない素人目には思えてしまう。

木曜日になった。

術後三日が経過し、頬の腫れもなく、ここまで来ればもう、このあと急にどうしようもないほど痛くなったりはしないだろうと僕の猜疑心もようやく晴れた。

術後経過を案じて昼の仕事はあまり入れないようにしていたので、時間の余裕があるうちに書きものだったりいろいろ進めておこう。そう思って、PCの電源を入れたそのときだった。いつもはすぐに表示されるデスクトップには行かず、見たこともない画面が表示される。調べてみたところ「ブルースクリーン」と言うらしい。PCに異常があり、通常の起動ができないときのメッセージが表示される。日本語では「青い死の画面」と言ったりもすると。なんだそれ。昨日まで元気だったのに。困る。

その日一件だけ入っていたオンラインレッスンは、前に使っていたパソコンでなんとか凌いだ。この文章もそれで書いている。代わりがいる。なんとかなる。

結局、PCは修理に出すことになった。コールセンターにかけて事情を説明したらそれしかないらしい。修理が上手くいく保証はない。もう戻ってこないかもしれない。でも、起動しないのがまだパソコンでよかった。と、大事な人たちの顔を思い浮かべて思った。

* * * *

ここからは余談。

コールセンターに電話をかけたとき、対応してくれたのは中国あるいは台湾の方だった。パソコンが台湾メーカー製のものであることを考えると納得がいく。電話先で、他のオペレーターが喋っている声も聞こえた。やはり同様に中国語アクセントがある。日本語が達者な台湾人、中国人を中心にチームを回しているんだろうなと思った。

それにしても、対応してくれた女性の日本語が見事だった。彼女の説明がスムーズなのはまだ理解できる。ある程度外国語を習得したことのある人ならわかるが、専門的な話というのは案外すぐにできるようになるのだ。それに何度も同じ説明をしているだろうから、慣れたものだろう。

それよりも大変なのは、こちらの状況を電話口で理解することだ。僕は聞き取りやすいようにできるだけはっきり喋るように心掛けたけれど、そういう人ばかりじゃないだろう。専門知識によって補われる部分もあるだろうけど、それを差し引いてもこちらに一切ストレスがなく会話が成り立っていた。

けれど簡単にはいかなかったこともある。はじめて知ったことには、修理するパソコンは業者がわざわざ引き取りに来てくれるらしいのだが、そのために住所を伝える必要があった。電話口で住所を教えるのは日本人相手でも難儀する。それを日本語非母語話者相手にやるわけで、多少は不安になった(向こうからしたら余計なお世話かもしれない)。

大方の住所は郵便番号からの検索でわかる。問題はそのあと。漢字を伝えるのは比較的簡単だった。言語が違っても同じイメージをすぐに共有できるのは本当にすごいことだ。ただ、アルファベットはそうはいかない。漢字と違って意味がないから、「Dは電卓のD」のように頭文字で伝達することになる。

ここで共通言語を探すのが楽しかった。さっきそういえばパソコンの製造番号にある C のことを「ABCのC」と言っていたな。僕はマンションのB棟に住んでいるので、「Bのxx号室です。ABCのBです」と言ってみた。するとオペレーターが「はい、わかりました。ABCのBですね」と復唱してくれる。ただ、これがどうしても「APCのP」に聞こえるのだ。中国語にはp音とb音の弁別がない、というのは中国語がわからない僕でも知識としては知っていた。だからこそ、Pに聞こえるということはつまりちゃんとBなんだ、と伝わったことに確信を持てた。そんなことがただ少し嬉しかった。

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