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読点を、どうするか

最終更新: 5月20日



 仕事でものを書きはじめて5年ほどになる。もともと「書くこと」は決して好きではないものの、大きな苦手意識を持っていたわけでもないこともあり、5年目ともなればある程度自分なりの「型」のようなものに当てはめれば、満点ではないけれどもまぁ及第点、くらいのものは書けるようになっていた(ただし、この「型」はあくまで会社仕事の中で書く文章に関するもの)。

 ところが、である。半月ほど前から、文章が書けなくなった。いっちょまえに「スランプ」などというものがやってきたのだ。言葉の断片は浮かぶのだが、それを全体として構成することができず、バラバラな何かが出来ては消えていく。なんとかして残そうと口述筆記ならぬ音声入力を試してみるが、慣れないためかまったくお話にならない。これは困った。

 幸い(?)、読むことはできた。なので、何かの参考になればと手元にあった本を読んでみたりもした。だが、いくら読んでも自分の頭は一向に活性化せず、何も形を成さない。

 いつも以上に手書きのメモを熱心につくるなどする中で少しずつ調子が出てきた気もするが、まだまだ心許ない。そんなわけで、なんだかフワフワしている。


 手に取った本の中に、須賀敦子全集があった。文庫版になっているのを最近になって知り、まずは1巻を読んでいたところだった。

 頭の中で構成がまとまらないことに対する反動のように、細かいところにばかり目が行く。気づいたのは、意外なほどの読点の多さ。例えば、こんなふうである。『ミラノ 霧の風景』中の「遠い霧の匂い」の冒頭から。


 もう二十年もまえのことになるが、私がミラノに住んでいたころの霧は、ロンドンの霧など、ミラノのにくらべたら影がうすくなる、とミラノ人も自負し、ロンドンに詳しいイタリアの友人たちも認めていた。年にもよるが、大体は十一月にもなると、あの灰色に濡れた、重たい、なつかしい霧がやってきた。朝、目がさめて、戸外の車の音がなんとなく、くぐもって聞こえると、あ、霧かな、と思う。それは、雪の日の静かさとも違った。

須賀敦子『須賀敦子全集』第1巻(2006年、河出文庫)p.13-14


 多いと感じるかどうかは人によるかもしれないが、少なくとも(今現在の)私にとっては多い方の部類だ。ただ、多いからと言って悪いのではない。むしろ、それによって独特のリズムが生まれているような気がして、読んでいて心地よい。


 人は読点をどのような基準で打っているのだろうか。中には、(こう言っては悪いが)あまり考えもなく、下手をすれば文節ごとに打っているのではないかと思われるものに出会うこともある。かと思えば、あまりに読点がなさすぎて、読んでいるうちに窒息しそうになるものもある。

 こう書いていてぼんやりと思ったのだが、おそらく、手書きする場合とタイプする場合で読点の具合は異なる。手書きだと、サラサラと、あるいはチマチマと書いていって、なんとなく一呼吸というタイミングでポツンと点を打つ。文字を書いた筆先がそのまま自然と点につながることもある。対してタイプになると、「よし、読点を打つぞ」という意識を多少なりとも持ってキーを押す。両者を比べて、どちらがが多くなってどちらが少なくなるかはよく分からないが、何か違いが出そうなものだ。個人的には、自分で手書きしたものを自分でタイプして清書するとき、「あれ、原稿ではここに読点が付いているけどこれは要らないや」と判断して減らしてしまうことが多々あるような印象がある。すると、私は手書きの方が多くなるというわけか。


 ぜひ、いろいろな人の「読点癖」や「読点意識」を見聞きしてみたくなってきた。

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