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言葉の呪術とオノマトペ



 ちゃらんぽらんな本読みなので、これまで古井由吉の書いたものをきちんと読んだことがなかった。文芸誌で組まれた追悼特集などを読むうちに遅ればせながら興味を抱き、いわば「後追い」の形で作品に触れたことになる。

 追悼特集から読み始めたということは、晩年の作品から入っていったということを意味する。まず驚かされたのは、小説ともエッセイともつかない独特の筆致。「いったい自分は何を読んでいるのか」と不思議な気持ちになるのは、「古井文学」の醍醐味なのかもしれない。また、原稿用紙にガリガリと手書きされ、推敲された気配が伝わってくるような文章も印象的だった。


 そのような中、河出書房新社から出た『私のエッセイズム 古井由吉エッセイ撰』を手に取る機会があった。いくつかのテーマごとに古井のエッセイ(「随想」というよりは「試論」)を集めたもので、古井を敬愛する堀江敏幸氏が監修者をつとめている。そこに書かれているのはたしかに日本語なのだが、すんなり理解できる論理構造で書かれているところもあれば、必ずしもそうではなく読み通すのに難儀した部分も少なくなかったものの、そうした点も含めて面白く読んだ。

 特に興味深かったのは、「ドイツ文学」とのテーマでまとめられた章と、「言葉」とのテーマでまとめられた章だった。前者については、小説を書き始める前にはドイツ文学者として翻訳などに取り組んでいた古井ならではの文章で、特に彼が翻訳を手がけたムージル・ブロッホについてのものは「なるほど」と思わされる。

 後者についても当然、興味深い点が多かった、例えば、このような箇所だ。


 具体的に考えて、言葉の呪術のもっとも単純で強い表われは擬声語ではないかと私は思う。それにもうひとつ、常套句かもしれない。個人の感性によって選び抜かれた語句よりも、擬声語と常套句のほうが古くてしたたかな尻尾を引きずっている。初心者の文章がその鮮烈な表現衝動にもかかわらず——あるいはそれゆえに——擬声語と常套句に満ちる傾きがあるということは、ただの技術や言葉のセンスの問題として済まされそうにもない。また作家が擬声語と常套句を極端に忌み嫌うということも、きわめて象徴的である。つまり、表現の過程にあるおぞましいものを文章の中にもちこむまいとする態度、審美と倫理がひとつに融けあった一種のストイシズムである。もちろん、ストイシズムというものはその核心に怖れをつつみこむものである。

古井由吉(著)、堀江敏幸(監修)、築地正明(編)『私のエッセイズム 古井由吉エッセイ撰』

「言葉の呪術」 (2021年1月、河出書房新社) p.185


 古井34歳の時の文章である。そろそろその年齢になろうとしている私だが、逆立ちしてもこのようなものは書けそうにない…ということは置いておいて、ここに書かれていることは、どうだろうか。常套句・擬態語が持つ呪術性やおぞましさを考えてみると、繰り返し繰り返し使われきたことによる「引力」のようなものがあり、うっかりすると得体の知れないところに引きずり込まれるかもしれない…とそんなような気もする(余談だが、「言葉」と「呪術」が並ぶと、タイトルからだけの連想だが、井筒俊彦の1956年の英文著作“Language and Magic”のことが頭をよぎる)。


 一方で、擬声語についてはこんなことも思う。宮沢賢治はどうだったか、と。独特な擬声語(擬音語)の使い方で知られる賢治がどのような経緯や思いでそのような表現行為に至ったかについては、あいにく知識の持ち合わせがない。だが、賢治の書いたものを読んでいると、ある種の新鮮さを感じる。それも奇を衒おうとするのではなくてそう感じたからそう書いた、というような。ちなみに、『銀河鉄道の夜』などは賢治自身が何度も改稿・修正を重ねたことで知られるが、その履歴を調べてみると、擬声語それ自体にかかわる修正は思ったより少ない印象だ。

 そんなことを考えていたら、以下のようなWebサイトを見つけた。賢治の用いた擬声語、つまりオノマトペを一覧にした労作だ。


http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/onomatopoeia/onomatopoeia.html


 奇しくも4月17日(土)に開催する「こもれびより」のテーマはオノマトペ。イベントを通して、創作におけるオノマトペのあり方なども考えられたらと思う。

 ちなみに、イベントの詳細は以下のサイトにある。申し込みは同サイト、もしくはメール( gogakujuku.commorebi@gmail.com )にて受け付けているので、ご興味があればぜひ。


https://peatix.com/event/1863846/

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