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テクストと向き合う




 本日は年頭にあたって何かご挨拶をせよということで、ご指名をいただきました。これまで、年明けというのはそれだけで気持ちが改まる気がするものだと信じていたのですが、いかんせんこのような状況ですから、実家にも帰らず外にも出ず自宅におりましたもので、特に改まるものもないということを知りました。貴重な体験だったと言えるかもしれません。

 そんなわけでこの年末年始は、主に本を読んで過ごしました。本当は外で適度な音に囲まれながら読書がしたかったのですが、なかなかそうもいかず、自宅の机の前に座してページをめくっておりました。そうした中から着想を得て、「テクストと向き合う」という話題でお話を差し上げようと思います。


 手に取った本の一冊に、御子柴善之先生の『カント 純粋理性批判』(2020年、角川選書)がありました。先生にはゼミなどで直接お世話になったわけではないのですが、在学中いくつか講義を拝聴して、そのお人柄や学問への姿勢にいたく感銘を受けた方でありまして、そんな先生がおおいなる熱量をもって書かれた本ですので、思わず背筋が伸びてしまいました。

 とは言えご覧いただくとおわかりになりますが800ページ近くもある大著ですから、一朝一夕では読みこなせません。以前もブログの記事でお伝えした記憶がありますが、そういう本はまず、道しるべとしてあとがきや解説を先に読むことにしております。本書のあとがきを読んでみると、この本が、『純粋理性批判』の内容を詳細に見ていき、カントの主張を理解するための助けとなることを目指して書かれたものであることがわかります。私が学生時代に履修した先生の演習では、毎回原文を参照しながら内容理解を進めていったものですが、それを書籍でも実行しようとされているように思いました。

 もうひとつ、目的として挙げられていることがありました。それは、「テクストそのもの」と向き合うこと。少し長くなりますが、読み上げます。


 ドイツで精力的なカント研究を行っている人に、ジーゲン大学のディーター・シェーネッカーという方がいますが、彼が二一世紀初頭から使っている言葉に Textvergessenheit (テクスト忘却)があります。私たちは哲学にかんすることを語る際に、ときに、「それってヘーゲル的だよね」などという言い方をしてしまいます。これは、哲学的思考を類型化して自分の思考を展開するのに好都合な表現ですし、教科書的な哲学史の知識を共有している仲間内では、それなりに通じやすい語り口です。しかし、その際、ほんとうにヘーゲルはそう書いているのかとか、「ヘーゲル的」というイメージはヘーゲル自身のものなのかという疑いは、思考の領野から姿を消してしまいます。シェーネッカーの「テクスト忘却」という言葉を、私たちは自分のこうした態度への警鐘と受け止めることができるでしょう。 (御子柴善之『カント 純粋理性批判』、p.754-755)


 そして直後に、「テクストそのもの」と向き合うことの重要性が強調されます。さらに、現在とは状況が異なる時代に書かれたテクストを読み込むことになんの意味があるのか、という起こりうる疑問に対しては、「テクストと誠実に格闘する人の中にこそ、哲学のフロンティアがある」としています。


 この箇所を読んだとき、私はあることに思い至りました。

 語学塾こもれびのWebサイトにはスタッフのプロフィールとそれぞれの一言コメントを掲載しているのですが、そこに私は「本を読みながら生きてきました。これからもきっと、そうしていくことと思います」と書いています。こんなことを書いた背景には、他のスタッフがそれぞれにきちんと自分というものを持っているのに対して、私は何もない、という暗い気持ちがありました。自分の中の空洞が恐ろしく、その空洞を埋めようとテクストをいわば過剰に摂取してきた、ということの表明です。これまでも、そしてこれからも、というわけです。

 しかし、読んでも読んでも結局何も蓄積されず、何も創造されず、流れゆくのみであります。その証拠に、読んだことをもとにして何か気の利いたことを言おうとしても、一言も出てきません。さながら、筒のようです。

 御子柴先生の書かれていることを読んで気づかされたのは、自らの読みにおける「誠実な格闘」の欠如です。哲学科の学生としてそうした訓練をしてきたはずではありますが、結局のところ、何も身についていなかったということです。私の手元にある学位記は、お情けでもらえたものと言わざるを得ません。


 当初の予定ではこんな暗いお話を申し上げるつもりではなかったのですが、なぜかこのような流れになってしまいました。しかしながら、こうやって皆さんの前でお話ししていることは巻き戻してやり直すわけには参りませんから、最後にひとつ、明るいお話をして終わろうと思います。


 先日、先ほどお話しした私の一言コメントを読んだとある方から、ありがたいことに好意的なお言葉を頂戴しました。曰く、「今のように人となかなか会えないときには、やはりテクストとじっくり向き合うことこそが大切です。あなたのコメントで、改めてそのことを思いました」と。自分のテクストの読み方に大いに問題があることを申し上げたばかりではありますが、「テクストを読む」という行い自体は間違っていなかったということがわかり、わずかながらでも救われた気分になった次第です。


 ということで、今年の私の目標は、「誠意をもってテクストと格闘する」ということであります。新年でありますから、一応そのように抱負じみたことを申し上げたところでお時間となりましたので、次の方にお譲りしたいと思います。これにて失礼いたします。


2021年1月 鰭模糊商業振興会 年頭挨拶にて



[著者より]

 この講演原稿を校正していた折、石見清裕氏が訳註を施した『貞観政要』(2021年1月、講談社学術文庫)が刊行され、入手した。例のごとくあとがきから目を通すと、以下のようなことが書かれていた。「一般に、『貞観政要』は皇帝・太宗が臣下の諫言を謙虚に受け入れる様が描かれた書である、というイメージがあるが、実はそのような理想が実現していたのは貞観一桁の年代まで。それ以降は傲慢になっていった様も本書では描き出されている。やはり、本というものは全部読んでみなくてはダメなのである」。

 講演の最後に申し述べた抱負に加えて、「きちんと最後までテクストを読み通す」ということもまた、今年の目標に掲げることとなった。

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