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燃えるような赤をその涙目にみるか。

A word is dead          ことばは死んだ

When it is said,          口にされた時、

Somebody say.          という人がいる

I say it just            わたしはいう

Begins to live           ことばは生き始める

That day.             まさにその日に。


※亀井俊輔編『ディキンソン詩集』岩波文庫(1998)より引用


 学ぶほどに感じるのは、言葉の限りない無力さ。しかし同時に感じるのは、その慎ましさ。言葉は自身の無力を引き受け、なおも語る。

 自分の気持ちを言葉にしてみても、どこか他人に伝わりきらず、釈然としない心持ちになることも多いだろう。あるいはその逆に、他人の気持ちを理解しようと、その言葉に耳を傾けてみても、実像がぼんやりとしか見えてこないことも。ひとしきりの会話ののち、我々はいつも心のどこかで「なんか違うんだよなぁー」と大なり小なりボヤくこととなる。

 どうやら何かを言葉にした瞬間に、伝えたいことの輪郭はぼやけてしまうようである。彼我の間に横たわり、互いの姿を見えるようにして繋いでくれる窓=言葉は、無色透明のクリアーな窓などではなかったのだ。言うなれば言葉は磨りガラス。目には見えないけれども、言葉は間違いなく「物質」として存在している。言葉の向こう側は見えないのだ。「情報データ」としての透明でツルツルな言葉ばかりに触れる私たちは、とかくこのことを忘れがちである。

 言葉は伝えず、むしろ隠す。言葉は無力だ。物事をスッキリ伝えきるなんていう試みは、端っから絶望的でしかない。だからといって、言葉なんか放棄して他者との交わりを絶ってしまえ、というわけにもいかない。人間が人間として生きている限り、言葉との縁が切れることはない。どうしようもない程に、言葉を通して世界や他人を認識するしかない私たち人間は、あの「なんか違うんだよなぁー」を日々連発しながら釈然としないままに生きていくほかないのである。他者と決して通じ合えない絶対の孤独という宿命が、こうして各自に抱かれる。

 こうした絶望的な状況こそが、しかし芸術を生むだろう。「それでもなお、伝えたい」という抑えがたい表現欲求による、人類の反撃である。そうして私たちは音楽を、絵画を、映画を創ってきた。通じ、繋がり合うことへの希求として。「どうか伝わりますように」というほどの、慎ましい祈りとして…。

 そうして言葉は詩となった。決してなにも明かさない、秘密を隠し持つ言葉。ここで伝えられるのは「意味」じゃない。「秘密」が、「秘密」のままに渡される。

 言葉は実に残酷だ。世界には意味があることを教えてくれながら、その意味が一体なんであるのか、決して明かしてくれはしない。その言葉の気まぐれと無力に、私たち人間はいつも戸惑い、悩み、苦しんできた。言葉を持ってしまったがために降りかかる痛苦を抱きとめて、とある詩人は、ため息交じりにこう語る。



 『帰途』田村隆一


言葉なんかおぼえるんじゃなかった

言葉のない世界

意味が意味にならない世界に生きてたら

どんなによかったか


あなたが美しい言葉に復讐されても

そいつは 僕とは無関係だ

きみが静かな意味に血を流したところで

そいつも無関係だ


あなたのやさしい眼のなかにある涙

きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら

ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう


あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか

きみの一滴の血に この世界の夕暮れの

ふるえるような夕焼けのひびきがあるか


言葉なんかおぼえるんじゃなかった

日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで

ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる

ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

            ※『田村隆一詩集』思潮社、現代詩文庫(1999)より引用



 誰かの涙を眼の前にして、私たちには立ち尽くすことしか出来ない。しかしこうも言えるのだ。私たちは、誰かの涙の只中に立ちどまることが出来る。あなたはどうか。言葉をもって、燃えるような赤をその涙目に見るか。

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