<断章—まだ見ぬ詩学のための>

「詩」ときいて、なにを思い浮かべるだろうか。

かたがた、多くはあの気取った言葉の羅列を思い浮かべることだろう。

ポエムと名状される、誰の目にも明らかな自己陶酔の産物をだ。

しかし詩は、そんなものでは決してない。


詩の姿は千差万別、あらゆる姿をとって現れる。

遠くに聞こえる音楽や、人の声。

雨の日に漂う匂い、遠い日の記憶。

誰しもに訪れうる、妙に生々しい感覚たちのことだ。

何気ない時間に不意にやってきては、私たちの心をくすぐり、すぐさま消えてゆく。


「ポエム」ではなく、「ポエトリー(poetry)」と呼びたい。

なにかしら詩的なものを指していう、poetry。

ものでも、時間でも、景色でも、物語でも、

雑談でも、想いでも、感覚でも、人間関係でもなんでもいい。


あえて断定しよう。このpoetryがないのなら、いかなるものでも貧困であると。

逆にいえば、poetryさえあれば、なんであろうとそれは豊かだ。

そして詩は、どんなものにも宿りうるものだ。


詩はなにものも所有しない、すべては放擲されたままにある。

詩は継ぎ足しではありえない。契機であり、それに続く創造である。

しかしそれと同時に、詩はなにかしらの反復であり、模倣でもある。

詩は否定の身振りでふるまいながらも、なにものも断念することなく、全てを微弱な震えに繋ぎとめている。


詩は時と場所を選ばずに、ところ構わず顔を出す。

詩は幾度となく生まれなおす。再び、また…そうした出合い直しがよく似合う。

昔々あるところに(once upon a time…)の調子ではじまるお話、それもまた詩の過程。

刻一刻と姿を変える。二度とはない時間と空間の、はじまりはじまり。

そうして詩は全体を志向しつつも、眼前の一に留まる。

詩は時間をひねり、空間をねじまげる。そうした当たり前の景色をもったいぶってうたう。

詩に易しさはない、しかしそれゆえに優しい—。


なぜ勉強をするか?

私の答えはこれです。自身の詩学=poetryを掴みとるため…ただそれだけなのです。

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