• こもれびスタッフ

意味よりかは、微弱な震えを

この世界はどんという音やすすり泣きで

終わるのではなく、見出しの一行や、ス

ローガンや、レバノンの杉よりも幅の広

いざら紙の小説で終わるのであろう。 

      ——ジョージ・スタイナー「沈黙と詩人」より

            (※由良君美他訳『言語と沈黙』1969、せりか書房)



 言葉が酷使されるようになって久しい。酷使とは?意味と情報の伝達に忙殺される言葉の有様だ。


 この世に生を受けると同時に、人は言葉の環のうちに投げ込まれる。真っ白なノートにも等しい世界をこけつ転びつしているうちに、ぼんやり色づき、形姿もくっきりしてくるのは、そう、言葉の囁きの仕業だ。


 こんな形がありますヨ——。こんな音がありますヨ——。こんな感触、味が、匂いがありますヨ——。上がこっちで、下こっちで——。立ってみようか、もう少しだけ高くにいくために——。ほらじゃあ、ちょっと、歩きましょ——。


 やがて人間、立派になれば、この声はもう聞こえない。世界のありようを一緒になって確かめた、かつての言葉はもういない。声を奪われたままに、意味と情報の伝達に利用されるのみである。健気にその役目を遂行しようとするその言葉の姿が、かえって惨たらしい。


 意味と情報が氾濫するこの場所から、もはや世界は消えた。あるのはその虚しさを埋めんとする、饒舌でかまびすしい記号の洪水のみ。やがてはこの洪水に飲み込まれ、最後に残るは沈黙と廃墟だろうか。


 しかしその沈黙のなかにこそ、わずかな言葉の囁きが聞こえてくるだろう。風に震える空気の音が、地を踏む誰かの足音が、ともすれば誰かの心音がーーすすり泣きのごとき声が、ようやく届く。あまりにも無意味で、ゆえに豊かだ。世界は再び産声をあげる。



『帰ろうよ』 吉増剛造


歓びは日に日に遠ざかる

おまえが一緒のあいだに見た歓びをかぞえあげてみるがよい

歓びはとうてい誤解と見あやまりのかげに咲く花であった

どす黒くなった畳のうえで

一個のドンブリの縁をそっとさすりながら

見も知らぬ神の横顔を予想したりして

数年が過ぎさり

無数の言葉の集積に過ぎない私の形影は出来あがったようだ

人々は野菊のように私を見てくれることはない

もはや 言葉にたのむのはやめよう

真に荒野と呼べる単純なひろがりを見わたすことなど出来ようはずもない

人間という文明物に火を貸してくれといっても

とうてい無駄なことだ

もしも帰ることが出来るならば

もうとうにくたびれはてた魂の中から丸太棒をさがしだして

荒野を横断し 夜空に吊られた星々をかきわけて進む一本の櫂にけずりあげて

帰ろうよ

獅子やメダカが生身をよせあってささやきあう

遠い天空へ

帰ろうよ

      ※現代詩文庫41吉増剛造詩集(1971、思潮社)より引用



今日を生きる我々に、一体なにが可能か——。

耳を澄まさねばなるまい。

弱さの余りに決定的な、言葉(おと)がどこかにないものか。

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