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モロッコ便り04 ~ 水たまり


フェズに来てもう4か月ほどが経って、だいぶ慣れてはきたけれど、居心地が良いとはいまだに言い切れない。住む場所を変えてから1か月も経っていなくて、近所に顔見知りがまだ少ないせいもある。けれど、どこにいたって(なにもフェズ、ひいてはモロッコに限ったことではない)、町を歩いているといつも視線を感じるし、毎日のように「ニーハオ」と声をかけられるのだ。たくさんの人がそう声をかけてくるけれど、そこに込められた気持ちや意図は様々あるように思う。


まず、ざっくりと分けると、挨拶をきっかけとしてその後に何か話したいことがある人と、特にこれといった用があるわけではなく、ただ挨拶がしたいだけの人がいる。

私に用事があって挨拶をする人というと、多くは、客引きのために声をかけてくるレストランや土産物屋の人だ。けれど、何かのお店の人でなくても、外国人とコミュニケーションを取りたくてきっかけ作りとして「ニーハオ」と声をかけてくる人もいる。通りで暇そうに座っているおじさんがたくさんいるのだ。


用事があるから挨拶をするというのはわかりやすいので、比較的受け入れやすい。東京で育った私は挨拶というものを、すでに見知った人や用事がある人に対してするものだと思っているから。フェズの人たちは東京の人に比べたら、よく挨拶をする方なのかもしれないけれど、それでもすれ違う人全員に挨拶をするわけではない。そんなことをしていたらきりがない。基本的には知っている人にしか挨拶をしないのに、私が多くの「知らない」モロッコ人から挨拶をされるのは、私がここでは「外国人」という特別に目立つ存在だからだ。


特に用事がないのに挨拶したがる人といっても、一括りにはできない。

歓迎する気持ちで相手の言葉で挨拶をしてくれているのだろうと思われる人もいれば、からかっている(きつい言い方をすれば、差別している)のだとわかる人もいる。表通りに面した食堂でごはんを食べていた時に、スピードを緩めることなく走り去っていく車の中から「ニーハオ!」という声が聞こえてきたこともあった。


「こんにちは」と言われることも時々あるけれど、「ニーハオ」と言われることの方が圧倒的に多い。そこで、「ニーハオ」と言われたら必ず、アラビア語で「違います、日本から来ました」と言うようにしていた時期があった。「ニーハオ」だけでなく、「チャイナ」など、私のことを中国人だと認識していると思われる言葉が聞こえた時にも、「日本人だよ」といちいち言っていた。そこからアラビア語での会話が少しでも始まったらいいなという気持ちもあった。実際、そう言うと、「アラビア語が話せるんだね!」と言ってもらえて、そこから自己紹介が始まることが何度かあった。会話の練習になるし、これはいいかもしれないと思い、しばらく続けていたけれど、ある日、自分のこの対応に違和感を覚えた。


それは、前方から歩いてきたモロッコ人一家とすれ違った時のこと。「ニーハオ」に過剰に敏感になっていたその頃の私は、小さな女の子がお母さんに向かって「スィーニーヤ(中国人)」と言っているのを聞き取った。無視することもできたはずなのに、私はすれ違いざまに咄嗟に「日本人です」と言ってしまった。すると、その一家は驚いて固まってしまって、「あ、そうなのね」とだけ言って去っていった。まさか私がアラビア語学習者だとは思っていなかったのだろう。地獄耳で驚かせてしまって申し訳ない気持ちになったし、何より、小さな女の子相手に大人げないことをしたかなと思った。そして、アジアから来た通りすがりの人の詳細なバックグラウンドを気にしている人などほとんどいないのに、なぜ毎回のように訂正したくなってしまうのだろうと、モヤモヤしたものを感じた。


ただ、いちいち訂正する日々の中で得た気づきもあった。

遠く離れたアジアのことをよく知らずに声をかけてくる人が少なからずいるということだ。日本語と中国語は違う言葉だと言ったら「そうなんだ」と驚かれたこともあるし、韓国と日本を混同している人もいた。私だって、アラビア語圏やアフリカ大陸のことで知っていることなんてほんの一握りにすぎないのないのだから、お互い様だ。

また、知識がないからひとまとめにしてしまう人もいる一方で、あえてひとまとめにして差別している人もいるのだろうということも感じた。


中国人と日本人を見分けてほしいと思っているわけではない。私自身、日本人かと思って近づいてみたら中国語が聞こえたということがあるし、中国人に中国語で話しかけられたこともある。本人たちだって、中国人と日本人を正確に見分けることができないのだから、その区別をモロッコ人に求めようとは思わない。


それなのに、中国人だと思われると「違う」と言いたくなってしまう。そして、私が日本人であることを伝えた後に「日本人はいい人たちだ」とか「日本は素晴らしい国だよね、テクノロジーが…」とか、相手から好意的な反応が返ってくるとどこか安心してしまう自分がいる。

単に事実と違うから訂正したくなってしまうのだと、自分ではそう思いたいけれど、心の奥底には、中国人だと思われたくないという差別の種を持っているのかもしれない。そんな自分に気づいて、「ニーハオ」と言われて心の中に「本当は日本人だけど」という気持ちが芽生えるたびに、自分が心底嫌になってしまうのだ。



日本の友達がモロッコにやって来て、一緒に一日を過ごした時に印象的だったことがある。それは、友人の一人が「ニーハオ」と言われた時に、無視をするのでもなく、日本人であることを知らせるのでもなく、きまって「ニーハオ」と返していたことだ。中国語話者が一人もいないのに、中国語で挨拶を交わすという妙な空間がうまれた。相手は私たちのことを中国人だと思ったに違いないけれど、その場限りの挨拶をしてきた通りすがりのあの人にとっては私たちがなにじんであろうがどうでもいいのだ。「本当は違う」と思ってしまう気持ちを一瞬抑える、このスマートな対応に目から鱗が落ちた。


別の国に留学中で、私と同じく「ニーハオ」問題に直面している友人にこのエピソードを話したところ、彼女はこの対応を「ふわっと水たまりを飛び越えるようだね」と表現した。

その比喩を借りれば、私はいまだに水たまりを飛び越えることができずにいる。水たまりを前にして立ち止まり、水面に映った自分を凝視してしまう。時にはそこに頭から突っ込んでしまうこともある。

けれど、いつもそうしていると疲れてしまうし、いつまで経っても前に進めない。

飛び越える以外にも前に進む方法はある。たとえば、自分の足が濡れるのも相手に水がはねるのも気にせず、水たまりの中も突き進むのも一つの方法だ。ただ、人は無視されると傷つくとわかっていながら無視するのも、案外疲れるものだ。特に、悪意がなく、せっかく覚えた外国語で挨拶をしたいと思っているだけの人に対しても水をはねさせてしまっているのだろうと思うと、少し胸が痛む。


水たまりを回避して前に進むにはどうしたらいいのだろう。

短い期間の旅行なら水たまりを飛び越えるのもいいけれど、長く滞在している私としては、水たまりができにくい道、できることなら、水たまりのない道を歩きたい。

そうだ、それなら、水たまりの水を自分で吸い上げてしまえばいい。一度でも、水を吸い上げてくぼんだ地面を平らにすることができたら、その後は水たまりができにくくなるはずだ。

そう思って、「ニーハオ」と言われたら、笑顔で「アッサラームアレイクム!ラバス?(こんにちは、元気?)」と返すようになった。色々な方法を試してみたけれど、これが今の私に取りうる一番いい方法なのだと思う。水を軽々吸い上げて進もうとする私に、少しでも引っかかりを感じた人は「お、アラビア語話せるんだね。どこから来たの?」と尋ねてくれる。自分から「日本人です」と言ってしまうよりも、私に興味を持ってもらって「どこから来たの?」を引き出す方がいいのだろうなと思うようになった。それがきっと、地面のくぼみを土で埋めるようなものなのだろう。ひとりで道を平らにするのは大変だし、できるものなのかも怪しい。私は水を抜いて、相手は土を足して、と双方の働きかけがあってやっと歩きやすい道になっていくのだと思う。


ちょうど今日は、「アッサラームアレイクム!ラバス?」を少しずつ続けていた成果と思われる出来事があった。

近所なのに一度もそこで買い物をしたことがなかった八百屋さんに行ったら、そこのおじさんが初めからアラビア語で挨拶をしてくれて、おや、と思っていたら、「日本人だよね?」と気さくに話しかけてくれたのだ。私が誰かと話しているのを見かけたのか、他の誰かから話を聞いたのだろう。


驚くほどシンプルなことではあるけれど、こうやって、自分で少しずつ居心地の良い場所にしていくのだなと知った。




(写真は、その八百屋さん。桃がおいしい季節です。)



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