こもれびより ~commoré-biyori~ vol.14 音楽から言葉へ 〜たゆたう漸近線〜 レポート

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 2020年12月19日(土)、こもれびよりVol14「音楽から言葉へ 〜たゆたう漸近線〜」を開催しました。「似ているもの」として比較されることの多い音楽と言葉ですが、はたして両者はどれだけ似ていて、どれだけ似ていないのか、そんなことを考えてみるのが、今回のテーマでした。
 

 当日はまず、自己紹介も兼ねて「学習したことある/している言語」と「やった(演奏した)ことのある/やっている楽器」をお一人ずつ話してもらうことからスタート。実にいろいろな言語・楽器が登場して、はじめから盛り上がりました。楽器の方で、ケニアの打楽器であるジャンベが出てきたときには皆さん、興味津々のようでした。
 

 それから話はいよいよ「音楽と言葉」へ。ちょっと現場の様子を振り返ってみましょう。
 

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 「音楽は言葉だ」とよく言われますが、音楽と言葉の共通点と相違点を「音」という観点から分析してみます。
 言葉も音楽も、スタートは音素です。ですがそこから先は意外と両者は袂を分かち、言葉は「(音素→)形態素→語→句」、音楽には形態素などはなく「(音素→)フレーズ」となります。形態素は「それだけで意味を成すもの」ですので、そう考えると、「言葉には意味があるが、音楽には意味がない」というところに着地しそうにも思えます。

 ですが、本当にそれだけなのでしょうか。この点をもう少し詳しく検討していきたいと思います。

 今度は、「音楽にあって、言葉にはないもの」を考えてみましょう。
 音楽は、同時に複数の音を鳴らすことができます。「和音」というものを想像してみるとわかりやすいかもしれません。ですが、言語では、一人の話者が同時に鳴らすことができる音は一つだけです。だからこそ、言語を発するときには、身振りや間、雰囲気といった他の要素を補足的に使用するとも言えます。
 また、音楽を聴いたとき、人は何かしらの「反応」をします。これには、「音楽の三要素」と呼ばれるメロディ・リズム・ハーモニーが関係しています。
 例えばハーモニーについては、「この和音は聴いて心地よい」とされる協和音は時代によって変化します。また、音楽的には不協和音ですが、その曲の中ではそれがあった方が心地よく聞こえる、ということもあります。
 では、「心地よさ」とはなんでしょうか。心地よさ、つまり協和感には、これまで自分が聴いてきた音楽に規定される「音楽的協和感」と、身体的・生理的な「聴覚的協和感」の二種類があります。このうち、音楽的協和感は、地域や時代によって異なります。その点に着目した研究として、例えばMITが行ったものがあります。
 

https://news.mit.edu/2016/music-tastes-cultural-not-hardwired-brain-0713

 
 音についてもう少し考えてみると、ある音を一つ聴いたときにそれによって悲しい気持ちが掻き立てられる、ということはあまりなく、実は、その音の次にどんな音が、どんな感覚で来るかという「差」が、我々の感情に影響するように思います。もっと言えば、その「差」こそを楽しんでいるのかもしれません。
 ここで参加者の皆さんには、「構造破壊」というものに関する研究をご紹介しました。ある楽曲について、メロディやリズムを破壊していく、という試みで、参考にしたのは以下の「音楽構造の破壊による音楽情動への影響の調査」と題する研究です(ちなみにこの研究では、人間の情動により影響を与えるのは、メロディよりリズムだという結論が導き出されていました)。
 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcss/20/1/20_152/_article/-char/ja/
 

 これまでの話でおぼろげながら見えてきたのは、一つ一つの音そのものが持つものというのは決して多くなく、「音と音の間で織りなすもの」、つまり音の組み合わせ、空間的・時間的な奥行きや差が意味を持つのではないか、ということです。
 

 やや話は変わりますが、「曲名と曲そのもの」ということを考えてみたいと思います。曲名も歌詞もない曲を聴いたときに、我々はそれらがある曲を聴いたときにと同じように感動できるでしょうか。もちろん、曲や音そのものを聴いたときにもそれが良いと感じることはあります。ただそれは、タイトルや歌詞という言語が付随したものを聴いたときとの感情とは別種のものなような気がします。
 また、先ほどの「音楽的協和感」の話でも見たように、音楽をどう受け止めるかは、聞き手に左右される部分も多いでしょう。
 言語であれば、「○○語」という共通のプラットフォームでやりとりをする限りにおいては、投げかけられたものに対してどのように応じればよいかがわかります。ですが、言語が付随していない音楽は、音そのものは享受できますが、それに応じることは難しいです。それは、投げかけられた音楽に合うように投げ返せる、共通の形式を持っていないことが多いからです。音だけは伝わるけれども、言語で伝えたいようなことまでは伝わらない、ということです。
 

 音楽が何かしらの言語性を持つためにはやはり意味が必要です。ですが、これまで見てきたように、一つの音だけで意味を構成するのはあまり現実的ではありません。意味を構成しうるとすれば、それは、音と音との変化や差、もしくは音の重なり(和音)です。ただそれも、発信者と受容者の間に共通のルールがあってこその話で、難しい問題を含んでいます。
 今日のお話の結論としては、「音楽が言語に近づく日は、まだまだ遠いのではないか」ということです。
 

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 以上が当日の様子のダイジェスト版です。
 この原稿を準備しているとき、作曲家・武満徹が『レクイエム』について答えているインタビューを聴きました。武満はミュージック・コンクレートで有名ですが、『レクイエム』はそれとは異なった形式の曲です。ミュージック・コンクレートについて彼はこんなことを言っていました。
 

 武満:「ミュージック・コンクレート」という名前は、便宜的なものです。つまり僕にとっては、音楽以前の、直接的なというか生な精神の運動を意味しているもので、自分にとって認識の最高の方法だと心得ています。音の正確な把握をしたいと思っています。
 インタビュアー:そういうお話を伺うと、普通の作曲家というか、詩人のような精神態度を感じますね。
 武満:それは、今は音にしても言葉にしても観念の記号を重ねて他(た)と区別するものとしてしか扱われていないわけですけれども、昔、芸術として音が独立する以前の状態、その状態では音も言葉もすべてが未分化の総体としてあって、音を発音する、というときは明らかにそれは生の挙動であったわけで。そうした未分化な状態に甦らせたい気持ちからです。

​出典:

https://open.spotify.com/track/6AXkf18DP9wHoHXyZI4gGJ?si=ja5Nh_EiQ5e26YicJPvn0A


 武満の発言は、必ずしも今回のイベントのテーマと直接結びつくものではないかもしれません。ですが、(武満の考えである)もともと一つのものであった音楽と言葉が今は分化してしまった、ということと、イベントの結論である「音楽が言葉に近づく日は遠い」ということを並べてみると、かつては一緒だったものが今は離ればなれになってしまっている、ということに不思議な気持ちになります。

 皆さんご自身でも「音楽と言葉」の関係を考えてみていただくと、発見があるかもしれません。